●關寛「養生心得草」
「青空文庫」より
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「青空文庫」より
どうやって送りましょう?
これはすでに症状?
たまには夜空をほろ酔いで
「老して学べば死して朽ちず」
「妹なんぞに負けてられるかいな」
「賢明な方法は、惜しみなく使いながら、決して価値のないことには浪費しないことだ」
「聞きたがる死にとむながる愚痴になる」
「百十歳になれば、一点一画、生きているように描けるだろう」
「美食する男性は若死にし、粗食に甘んじてきた女性が長寿を全うする」
「身体と頭をよく使っていたのがよかったのかも」
「この生活の仕方には変化がなかった」
「子どもたちよ 子ども時代をしっかりと たのしんでください。」
「嫌いなことはくたびれるけど、好きなことをするならむしろ若返るものよ」
「ありがとう、というて、生きることが極楽やの」
「お腹の中でけんかするものを食べてはいけないよ」
「病弱だったことが成功の最大の要因。健康だったら、仕事も自分でやろうとして、そこそこの成功で終わっていたかもしれない」
「一に散歩、二に日光浴、三に食養生。とくに早朝の散歩と日光浴を毎日欠かさず実行すること」
「事業を道楽にし、死ぬまで働き学び続けて、息がきれたら事業の墓場に眠る」
「人生に遅すぎることはない。50歳でも、60歳でも、新しい出発はある」
「食を選んで大食いせず、うまいものなら二箸残し、胃腸と一緒に寝る」
健康を保つには精神がカギ
言葉の力
野営の食事でスタミナを。
西郷隆盛・木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれた人物。
「勝って兜の緒を締めよ」
賢人だけでなく、名将も愛した?食材
新撰組と豚。
梅が香に のっと日の出る 山路かな
宮本武蔵の強さの秘密
『蜻蛉日記』の作者は?
「昨日の非は悔恨すべからず。明日、これ念慮すべし。」
大久保彦左衛門は、『三河物語』にこんなことを語っているようです。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」
天下を分ける戦いは食事にあった?
皆さんは大村益次郎(おおむらますじろう)をご存知でしょうか?
明治のセメント王の好物。
学校にありましたか?
朝日新聞を創業した「新聞王」村山龍平。
日本の歴史上の人物屈指の(?)病弱者がいるそうです。
朝顔に つるべとられて もらい水
昨日にひきつづき、貝原益軒(かいばらえきけん)から健康法を学びたいと思います。
貝原益軒(かいばらえきけん)を知っていますか?
「気はながく、つとめはかたく、色うすく、食はほそくして、こころひろかれ」
大分過ぎてしまいましたが11月11日は「鮭の日」です。
最近スーパーに行くと、良い匂いが漂っています。
戦国の武将、藤堂高虎(とうどうたかとら)には、こんな逸話が残っています。
『新古今和歌集』
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
犬を連れた銅像と言えば…
伊能忠敬(いのうただたか)といえば…
南方熊楠(みなかたくまぐす)という人を知っていますか?
7世紀、朝鮮半島からやってきた王子がいます。
高山右近(たかやまうこん)は、摂津の国(現在の大阪・兵庫の一部) 高槻城主でした。貧しい人たちの葬儀のとき、城主自らが 率先して棺をかついだという話もあります。
そして、彼はキリシタン大名として有名です。
そのため、織田信長、豊臣秀吉の家臣として多くの武功を挙げたにもかかわらずキリシタン禁制によって、最後はマニラに追放されてしまいます。
さて、そんな彼は豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めている時、陣中に大量の牛肉を蓄えていたそうです。
紫式部といえば、『源氏物語』の著者として有名ですよね。
彼女は小さい頃から漢文を読みこなした才女とも言われています。
彼女は結婚しましたが、結婚生活は長く続かず、夫とは死別してしまいます。その後、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)の家庭教師として仕えました。
以前、『北条時政(ほうじょうときまさ)の健康法』を学びましたが、それから4代後の5代執権北条時頼(ほうじょうときより)から今日は健康法を学びたいと思います。
時頼といえば、『鉢木』の能が有名ですよね。大雪の中、僧(北条時頼)に一夜の宿を貸した御家人・佐野常世(さのつねよ)が、秘蔵の3つの鉢木を燃して暖をとりもてなし、鎌倉への忠誠心を語ります。後日、鎌倉から挙兵の知らせがあり、常世が鎌倉にかけつけると北条時頼は常世を呼び出し、身分を明かし鉢木の礼にと、3つの領地を与えるというお話です。本当かどうかは分かりませんが。
楠木正成(くすのきまさしげ)は、南北朝時代の武将です。
最近、スーパーで気になる食べ物があります。
それは、「ほうとう」です。食べたことがなく、一度食べてみたいといつも「ほうとう」の乾麺の前に立ちしばらく考えてはまだ買っていません。
この「ほうとう」なにやら武田信玄と関わりがあるようです。
石田三成は、永禄3年(1560年)に石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)に生まれます。そして、豊臣秀吉の小姓として仕え、後に側近として台頭して行きます。
しかし、秀吉の死後、敵対関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らが徳川家康と力を合わせ、三成をやっつけようとします。そして、関が原の戦いが起こります。
今日も引き続き、牧野富太郎から健康法を学びたいと思います。
昨日は、彼の好きな食べ物を見ていきましたが、今日は彼の行なっていた運動を見ていきたいと思います。
彼は植物学者です。植物を求めて野を歩き、山を歩いたことでしょう。それが自然と運動になったことでしょう。つまり、知らないうちに森林浴の効果を得ていたのです。
今日は、「日本の植物学の父」とも呼ばれる牧野富太郎の健康法を学びたいと思います。
牧野富太郎は、1862年、土佐国(高知県)に生まれました。小学校を中退し、独学で植物学を修めました。多数の新種を発見し命名したり、研究成果を50万点もの標本や観察記録、そして「牧野日本植物図鑑」に代表される多数の著作として残しました。例えば、可愛い花なのに不幸な名前(?)のオオイヌノフグリも彼が命名した植物の1つです。
昨日にひきつづき徳川家康の健康法を見て行きたいと思います。
徳川家康は、囲碁も好きでした。囲碁を通して友情も得ていました。特に浅野長政とは、親しかったようです。
鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス
この言葉は有名な3武将のなかの誰を指しているかは皆さんもうお分かりですね!!
そう、徳川家康です。
家康は、戦国時代に三河国岡崎に生まれ、人質として耐え忍ぶ日々を過ごしていました。そして、織田信長の盟友となり、信長の死後に天下を取るかと思いきや豊臣秀吉の存在があり叶わず。秀吉の死後天下を取り、その後264年にわたって徳川の世が続くことになります。徳川家康が征夷大将軍になったのは約60歳でした。
さて、家康。健康マニアとしても有名なのではないでしょうか?
今日は、柳生 宗厳に健康法を学びたいと思います。
宗厳は、石舟斎とも呼ばれ、柳生十兵衛のおじいさんになります。彼は、戸田一刀斎や新陰流の上泉信綱と出会い、剣術を学んで名を挙げました。そして、信綱から一国一人の印可を受け、新陰流を継承すると、宗厳は「柳生新陰流」という剣術の一派を創設しました。
その腕前は、こんな伝説として残っています。
昨日に、ひきつづき北条時政の健康法を見ていきたいと思います。
さて、彼の食生活はどんな感じだったのでしょうか?
齋藤滋氏が神奈川歯科大学で実験を行われました。各時代の食事を復元し、同大学の学生に食べてもらいます。そして、その咀嚼時間と咀嚼回数を計測しました。
その結果、現在の食生活と比べて、鎌倉時代の食事はよく噛む必要があったことが分かりました。
この「よく噛む」ということがとても健康によい効果を持っています。
今日は北条時政に健康法を学びたいと思います。
北条時政は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻北条政子の父親です。彼は、頼朝が亡くなると、外戚として権力を強めていきます。そして、北条家以外の有力御家人を息子義時と一緒にバッサバッサと倒し、執権政治を確立していきました。
ちなみに、倒された御家人は以下の人たちです。
・梶原景時
・比企能員
・畠山重忠親子
・和田義盛
覚え方は「カジ(梶原)だ、ヒキあげろ(比企)。ハタケ(畠山)ワ(和田)大丈夫?」と教わりました。よかったら覚えてみてください。
話を戻しますが、彼の健康法は何だったのでしょう?
今日もひきつづき、天野長重の健康法を見て行きたいと思います。
昨日紹介した体操や鍼灸以外で彼が人にも薦めていた健康法。それが「ウォーキング」です。いろいろな病気によいとして「とにかく歩け」と力説していたそうです。
確かに、ウォーキングには様々な効果があります。
今日は天野長重の健康法に学びたいと思います。
私はこの人をよく知らないのですが簡単に説明しますと、江戸時代の武士で、目付、御先鉄砲頭、御旗奉行などを勤めました。島原の乱では従軍した旗本の最後の生き残りとして第五代将軍・綱吉から称賛の言葉を与えられたこともあるそうです。
長重は「武士之嗜(ぶしのたしなみ)」を5つ挙げています。
昨日にひきつづき、教育者の棚橋絢子さんの健康法を紹介したいと思います。
棚橋さんは、13歳の時に父親から、
「人間、食いすぎると物覚えが悪くなる」
と言われ、それ以降食事を腹八分目にするようになったそうです。そして、暴飲暴食は勿論間食もあまりしなかったそうです。
今回は、日本の女子教育界の第一人者である棚橋絢子(たなはし・あやこ)さん(天保10年から昭和14年)の健康法を学ぼうと思います。
棚橋さんは、幼少頃から学問に親しみ、朱子学に造詣深い漢学者棚橋大作と結婚し、愛知県で寺子屋や私塾などを開きます。その後上京して、国立の東京女子師範学校をはじめとして学習院の教師また爵家の子女への指導で活躍します。学習院辞任後は、愛知県名古屋高等女学校(現在の名古屋市立菊里高校)や東京高等女学校(現在の東京女子学園)の初代校長として就任しました。「女性は婦徳・良妻賢母だけでなく、知性にもとづいた自らの力で判断し行動する能力を養わなければならぬ」として、100歳まで校長職を務め、101歳でその生涯を終えます。定命50といわれた時代の101歳です。今日なら130歳くらいに相当するそうです。 そして、この訃報は、ニューヨーク・タイムズにも掲載されたそうです。
(参考:東京女子学園HP)
さて、昭和13年に婦女界社から出た『伝記棚橋絢子刀自』のなかで、棚橋さんは、次のように言っています。
今回は、大久保彦左衛門が80歳という長寿であった秘訣を探りたいと思います。
大久保彦左衛門と言う人物について、私は知りませんでした。そこで、高校の時の教科書を引っ張り出し、索引で探してみたのですがやっぱり載っていませんでした。そこで調べてみたところ、徳川家光の時の「天下のご意見番」としてテレビドラマなどでも出てくるような人物なのだそうです。
ハクシ(894)に戻そう遣唐使
歴史を学ぶ時、ほとんどの人がこの覚え方を習ったのではないかと思いますが、この遣唐使の廃止を建言した人物が菅原道真です。
菅原道真は、平安時代の宇多天皇・醍醐天皇の側近として、天皇を中心とした政治が行えるよう尽しました。けれども、藤原時平の策謀によって道真は大宰府(現在の福岡県)に左遷され亡くなってしまいます。その後、雷神・祟り神として恐れられましたが、現在では天神として祀られ、学問の神様として親しまれています。
さて、昨日から見ていっている沢庵和尚ですが、もう1つの健康法は、恐らく、禅宗であった彼が行っていた座禅にあるのではないでしょうか?
脳波には、4つの種類があります。
ベータ(β)波…目を開け、考え、活動している時の脳波
アルファ(α)波…目を閉じ、リラックスし、気持ちよいと感じている時の脳波
シータ(θ)波…眠る直前の脳波
デルタ(δ)波…眠っている時の脳波
です。そして、座禅をすることでこの中のアルファ(α)波が多く流れることができます。
今日は、沢庵和尚に健康を学びたいと思います。
沢庵和尚は、江戸時代の臨済宗の僧です。10歳で出家し、37歳で臨済宗大徳寺の僧になりましたが、紫衣事件(幕府が朝廷の決めた僧の階級を無効にした)がおきたとき、幕府に反発し、出羽国(現在の山形県)に流されました。後に、3代将軍徳川家光に許され手厚い庇護を受けます。
沢庵と聞くと、皆さんは何を思い浮かべますか?恐らく、「沢庵漬け」ではないでしょうか?
昨日に引続き、千利休の健康の秘訣を見ていきたいと思います。
彼の、健康の秘訣は、お茶だけではありませんでした。もう1つ、彼の健康を支えた食材がありました。それは、大豆です。
利休の弟子から茶の湯を学んだとされる茶人・久保利世が寛永17年(1640)に随筆した『長闇堂記』の中の利休の歌に、
振舞は こまめの汁に えびなます 亭主給仕を すればすむ也
とあります。これは、「茶会を仰々しくしない様に」という意味ですが、「こまめの汁」とは、「小大豆の汁」で大豆をすりつぶして作った汁のことで、とても消化によいそうです。
千利休は、いわずも知れた千家流茶道の創始者です。彼は、堺の商家、田中与兵衛の子として生まれます。そして、武野紹鴎に茶の湯を学び、簡素を宗とする「侘び茶」を芸術の域まで高めました。利休は、織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えます。しかし、彼の最期は、「大徳寺の山門に利休自身の木像を祀った」という理由から切腹を命じられ、70歳で生涯を閉じました。
利休の逸話には、「朝顔の茶の湯」というお話があります。
利休の庭に朝顔の花が見事に咲いていると秀吉に言った人がいました。そこで、秀吉は、見に行こうと朝の茶の湯に出向きましたが、庭には一輪の朝顔も咲いてはいませんでした。どうしたのかと不機嫌に思いながら、小座敷に入ってみると、そこには色鮮やかな朝顔が一輪床に生けられてありました。秀吉とお供の者は目が覚める思いがして、利休を褒めました。
というお話です。秀吉は、利休の自害後もたびたび利休のことを口にしたそうです。利休に死を命じた秀吉ですが、利休の大成した茶の湯や美意識を理解し尊敬していたようです。
今回は、武家女性の養生生活がどんなものだったのか見て行きたいと思います。
そこで、今回、健康法を学ぶのは豊臣秀吉の妻である「おね」です。呼び名では、「おね」の他に「ねね」などとも呼ばれますが、書状などには「ね」としかなく、はっきりとしたことは分かりません。そこで、今回は「おね」でいきたいと思います。
おねは、天文17年(1548)、織田家家臣、木下定利の娘として、尾張朝日村に生まれました。そして、伯母の嫁いだ浅野長勝(足軽組頭)の元に養女に出されます。おね14歳のとき、25歳の秀吉と、当時めずらしい恋愛結婚をしました。
皆さんは、「島津義弘」という人物を知っているでしょうか?
島津義弘は、天文4年(1535)に島津家第15代貴久公の次男として、鹿児島県南部に位置する伊作(いざく)の亀丸(かめまる)城にて生まれました。彼は、とても勇猛な武将として知られていて、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、義弘率いる島津軍は「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼ばれて恐れられたそうです。
また、慶長5年(1600)に起きた天下分け目の戦いである関ヶ原合戦では、毛利輝元を総大将とした、石田三成の西軍につきました。
西軍の敗色が濃くなったとき、家康軍の中央突破を計った奇妙な一団がありました。それが、後に「島津の退(の)き口」と言われるのですが、敵陣中央突破の破天荒をやってのけたこの一団を指揮した武将が島津義弘です。
島津義弘は、85歳まで生きましたが、このように長寿であったのはなぜだったのでしょう?
皆さんは、「一休さん」知っていますか?
「あわてない、あわてない、一休み、一休み」
のフレーズや、足利義満が「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と問題を出したところ、一休さんが「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返したというお話が有名ですよね。
この「一休さん」、元になったのは室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧である一休宗純です。
今日、健康を学ぶ歴史上の人物は毛利元就です。
毛利元就は、室町時代から戦国時代にかけての安芸の戦国大名です。安芸国の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くほどの勢力を拡大しました。毛利元就についての逸話というと「三本の矢」が有名ですよね。
ある日、元就は三人の息子(隆元・元晴・隆景)を枕元に呼び寄せます。そして、1本の矢を折るよう命じます。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じましたが、息子たちは誰も折ることができませんでした。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、「これだと、なかなか容易には折れぬ。兄弟もこれと同じだ。仲良くしなさい」と三兄弟の結束を強く訴えかけたというお話です。
さて、元就。この逸話のように、息子たちに残した教訓があります。
北条早雲の健康法は、早雲が残したとされる『早雲寺殿二十一ヵ条』という家訓からうかがえます。『早雲寺殿二十一ヵ条』のなかには、早雲が制定した家臣団の教育・指導方針、生活上の心得が定められています。
朝は、いかなる時でも早起きすること。主人が遅く起きれば、召し使っている者までも気をゆるして働かず、公私にわたって、用をおろそかにするようになる。その結果、主君からも見捨てられることになると、深く反省して慎むべきである。(第2条)
夜は午後八時以前に寝静まること。野党は午前零時から三時に忍び込む。宵の口に無益な雑談にふけって、夜半すぎに寝入ると、野党に家財を盗まれ、損害を受けることもなくなる。(第3条)
北条早雲は、いつ、どこで生まれたのか?どのように成長したのか?その前半生が謎につつまれた武将です。
早雲が、歴史上に登場するのは、1476年、自分の妹の夫であった今川義忠の急死後、今川家の内紛を早雲が調整者として活躍して興国寺城主となります。そして、伊豆国の支配者となり、後に小田原城主大森藤頼をほろぼして伊豆国・相模国の2ヶ国を支配しました。
こんな逸話もあります。小田原で馬を盗んだ人を役人が尋問している横に早雲がいました。役人が尋問するのに対して、盗人はこう答えたそうです。
為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり
やればできる
やらなければできない
「できない」というのは、やらないだけだ
この有名な言葉は、米沢藩(山形県)藩主上杉鷹山の言葉です。
上杉鷹山は、名君として知られています。17歳のとき、米沢藩主・上杉重定の養子となり、米沢藩を継ぐと、たくさんあった借財をなくし、領民が苦しくない生活を送れるようにと、まず、自らの暮らしを節約し、農村を見回り要望を聞く、自ら鍬を持って田を耕すなど様々な政策を取りました。
後に、来日したアメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディも日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げていています。
い、くろ、やまがた、まつ、い、まつ
い、くま、やまがた、い、けい、えん
けい、えん、けい、ごん、くま、じ、ばら
たか、かと、ごん、きよ、かとこうこう
わか、たな、はま、わか、いぬ、かい、さい
おか、ひろ、りん、きん、ひらぬま
あ、ない、きん、きん、とう、こいそ
すず、くに、しではら、よしだ、かた
・・・・
これを、「もしもし亀よ亀さんよ」で歌ってみてください。私は、こうやって歴代総理大臣を覚えるように教えてもらいました。
伊藤、黒田、山形、松方、伊藤、松方
伊藤、大隈、山形、伊藤、桂、西園寺
桂、西園寺、桂、山本(権)、大隈、寺内、原
高橋、加藤、山本(権)、清浦、加藤(高)
若槻、田中、濱口、若槻、犬飼、斉藤
岡田、廣田、林、近衛、平沼
安部、米内、近衛、近衛、東條、小磯
鈴木、東久邇宮、幣原、吉田、片山
・・・・
片山哲さん以降の総理大臣も、同じように歌っていたのですが、今では歌詞が部分的にしか思い出せません。しかも、マーク式の試験ならいいのですが、フルネームで書けと言われると…困ります。
そんなことはさておき、この歌詞でも2度出てきた山県有朋さん。今日は、山県有朋の健康法を学びたいと思います。
世阿弥を知っていますか?
世阿弥は室町時代に父の観阿弥と共に能を大成した人物です。
彼の書いた書の中に『花鏡』というものがあります。この『花鏡』の中で述べられた言葉が「初心忘るべからず」です。この意味を知っていますか。私は、事に当たるときにもっと最初の意気込みなどを忘れないことだと思っていました。勿論、辞書にもこの意味も書かれています。でも、『花鏡』ではどうだったかというと…
「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。
是非とも初心忘るべからず(是非によらず、修行を始めたころの初心の芸を忘るべからず )
時々の初心忘るべからず (修行の各段階ごとに、各々の時期の初心の芸を忘るべからず )
老後の初心忘るべからず (老後に及んだ後も、老境に入った時の初心の芸を忘るべからず )
この三、よくよく口伝すべし。」
さて、今回、健康について学ぼうと思うのは、伊達政宗です。
伊達政宗は、「独眼竜」と呼ばれますが、これは、4歳ぐらいの時天然痘にかかり右目を失明したからです。こんな逸話があります。徳川家康や豊臣秀吉たちに「右目はどうしたのか?」と聞かれた政宗が「木から落ちた時、右目が出てきてしまったが、あまりにおいしそうだったので食べてしまった」と語ったそうです。政宗が、「食べてしまった」という話をしたのは『三国演義』に登場する夏侯惇という武将が、戦場で適に左目を射抜かれた際、「父の精母の血、棄てるべからざるなり」と叫んでこれを食べたという話から引用したとされています。
さて、伊達政宗ですが、政宗の言動・生活ぶりを記録した『政宗公御名語集』のなかで
「奥方などで使われているものが病にかかると、よく政宗が診察をした。脈をとり、病状、処方すべき薬を書状にして医師に渡すのだが、1度も誤ることがなかった。医師たちは『意外なことである』としきりに感心した」
と記されているそうです。ですから、政宗は自分の診察も自分自身でしてしまうのですが、消して過信をしていなかったようです。
「日頃からご自身で自分の脈をとり、悪寒や熱気を感じた時などは、自身の見立てに疑問が生じるとすぐに医者を呼び出し、相談のうえで治療した」『御名語集』
政宗は「名医にして名患者」だったようです。
春日局を知っていますか?
春日局は、江戸時代、3代将軍徳川家光の乳母です。家光が将軍となる前、竹千代と呼ばれていた時のことです。家光の実母江与は家光の弟である国松を溺愛していました。その様子を見て家光が将軍職に就くことが危ういと感じた春日局が家光の祖父である徳川家康に直訴にいった話は有名です。
その春日局の食事は質素なものだったそうです。その様子を見た家光が「もっと豪華な食事をとってはどうか?」と言ったとか。その食事の内容は?