最近、「要約筆記」の話題が各新聞社から報道される機会にしばしば触れます。私自身、もう5年ほど前になるでしょうか、大学院の2年間の間、「要約筆記者」として活動をしたことがあるので、その取り組みが広がっていること、さらに新聞によって広く啓発活動が行なわれることは喜ばしいことだと思います。ちなみに手話サークルにも入っていました。
『要約筆記を学ぶ』(紀伊民報/07・3・16)
『サークル「沖大ノートテイクグループ』(琉球新報/07・3・13)
この記事を読みながらふと、なぜ「要約筆記」や「手話」はボランティアの手段として比較的多くの人が参加しているのかと考えました。
大学で言うならば、聴覚障碍の場合にはその入学の門戸が他の障碍よりも開かれているからなのかもしれません。肢体不自由障碍や視覚障碍に対する設備面での支援にはまだまだ遅れが目立ちます。知的障碍に関しては、入試制度という壁が、その門戸自体を閉ざします。
大学は教育機関の最終学府であり、規定された基礎学習から離れ、より自身の選択が尊重され、自由に学ぶことができるはずです。それ以前の教育機関が「進学優先」となってしまっている現状の中、大学は「学ぶ」こと自体を純粋に目的としておくことのできるものです(もっとも最近は就職のための予備校となりつつあるとも言われますが・・・)。
そのような大学だからこそ、もっと障碍を持つ人々に、その障碍の種類を問わず広く門戸を広げ、受け入れてほしいと望みます。彼こそ、いわゆる健常者と呼ばれる人たちよりも長く、そして個にあった教育環境が必要なのです。そしてそれが可能となるのが大学です。
【障害福祉編.07年.6号.86頁に記事掲載】