●10代が選ぶ重大ニュース
| 1 | いじめ・自殺問題 |
|---|---|
| 2 | 北朝鮮の核問題 |
| 3 | 未履修問題 |
| 4 | 安倍新内閣発足 |
| 5 | WBCで世界一 |
| 6 | 荒川静金メダル |
| 7 | 紀子さまご出産 |
| 8 |
日ハム日本一 |
| 9 | 早実甲子園優勝 |
| 10 | W杯開催 |
(セーラー万年筆:2006年実施)
この結果をみてどう思われたでしょうか?
【教育版.4号.68頁に記事掲載】
| 1 | いじめ・自殺問題 |
|---|---|
| 2 | 北朝鮮の核問題 |
| 3 | 未履修問題 |
| 4 | 安倍新内閣発足 |
| 5 | WBCで世界一 |
| 6 | 荒川静金メダル |
| 7 | 紀子さまご出産 |
| 8 |
日ハム日本一 |
| 9 | 早実甲子園優勝 |
| 10 | W杯開催 |
(セーラー万年筆:2006年実施)
この結果をみてどう思われたでしょうか?
【教育版.4号.68頁に記事掲載】
「鈍感力」という言葉がにわかに注目を集めました。
その発端は、小泉純一郎前首相。
「鈍感力」とはもともと作家渡辺淳一氏のエッセーのタイトル。
前首相は国会内で中川秀直幹事長らと会い、その言葉を引用しながら、目先の支持率に右往左往することなく、長期的な視点から政府・与党が一体で政権運営に当たるように注文をつけたとのことです。(毎日/2・21)
背景には、相次ぐ閣僚の不祥事や郵政造反組の復党問題などが絡み、安倍政権の支持率低下がとまらない状況に、危機感を抱いた中川幹事長の「忠誠心なき閣僚は去れ」といった発言がありました。
小泉前政権では、派閥政治が壊され、一枚岩になったかと思われた与党人事基盤でしたが、安倍政権になりにわかにその反動が出てきたように思われます。
「結局、政治家は何も変わらない…」とのため息が国民からは聞こえてきそうです。
久々にメディアの前に登場し、相も変わらぬ注目を集めた小泉前首相ですが、その真意はどこにあり、それはしっかりと伝わっているのか。
渡辺淳一の言う「鈍感力」は下記のことです。
「これまで鈍感というと、なにか悪いマイナスイメージのものと思われがちでしたが、そんなことはありません。ひりひりと傷つき易い、鋭く敏感なものより、たいていのことではへこたれない、鈍く逞しいものこそ、現代を生き抜く力であり、知恵でもあるのです。」
(渡辺淳一 オフィシャルblog.より)
単に国民の痛みに鈍感な政治家だけでは困ります。
そのあたりはいかがでしょうか?
【社会版.07年.5号.42頁に記事掲載】
2月7日は「北方領土の日」でした。
メディアはそれぞれの立場で「北方領土問題」を取り上げたいましたが、国民自身の関心はいまひとつという感じがします。
北方領土=歯舞・択捉・色丹・国後が旧ソ連によって占領されたのは、日本がポツダム宣言受諾の2週間後。しかも、日ソ不可侵協約が結ばれているにも関わらずでした。
現在も、4島一括返還論や2島返還論の議論は起こりながらも、日露の思惑はすれ違いを見せたまま膠着状態が続きます。
国民にいまひとつ関心が高まらないのは何故か?
それともそれが良いことなのか?
「北方領土問題」は日本の戦争、その後の戦後処理といった歴史的課題と、民族主義=ナショナリズムに触れる問題がゆえに、どこか「タブー視」するという雰囲気があるのか。「北方領土問題」の内実を知らないが故からか。それとも領土問題は国家と国家の解決事項でありがゆえに想像力が届かないのか。
実際のところはどうなんでしょうか?
そんななか、高市沖縄北方相が、学習指導要領改定の際に、「北方領土問題」を詳しく授業でとりあげることを伊吹文科相ぬ要望したとの報道がありました(産経/2・12)。
高市氏は「北方領土の歴史的背景を含めて、国家主権に関わる重要事項として授業で扱うよう指導要領に明記して欲しい」と要請したとのこと。
昨年末の、「教育基本法改正」においては、「愛国心」が大きな論点となっていたことは記憶に新しいことです。
今回の要請が実現するのであれば、「愛国心」というものが教育のなかでどのように位置づけされるのかを具体的に知る最初の機会となるかもしれません。
【社会版.07年.5号.10頁に記事掲載】
『自分の足で、目で、頭で』(京都/3・15)という記事を掲載しました。
比較文明学者、梅棹忠夫氏(86)へのインタビュー記事です。
梅棹氏は、50年前に「文明の生態史観」-日本文明は西ヨーロッパ文明と同質であり、アジア諸国の文明とは異なる-という学説を発表し、世界史の認識に画期的な変革をもたらしたと紹介されています。
今もその学問に対する情熱は衰えず、その文明論を背景に「脱アジア外交」や「日本語のローマ字表記」などの提案を行っています。
その文明論や提言の是非はさておき、氏の飽くなき知的好奇心・世界という視点でものを捉える視野の広さ、枠に囚われない発想力には感心します。
学問のみならず、私たちが日ごろの生活のなかでも見習うべき姿勢を氏は持っていると感じました。
私たちの好奇心はどこか軽薄に流れがちで、視点は自己中心的で、それでいて他者の評価を気にするがばかりに、既成の枠を超えた発想ができない…といったら言い過ぎでしょうか?
記事は最後に氏の次のような言葉で締めくくられています。
「自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の頭で考える。それが学問ですよ」
情報過多の時代、私たちはその判断材料を、その思考を他処の誰かに委ね過ぎてはいないでしょうか?
自分の足で歩き、自分の目で見てとれることは限られているかも知れません。でもそこからの思考は無限です。
自身に限界を設けるのは、自身しかいないのですから。
【社会版.07年.5号.5頁に記事掲載】
外部から何らかサービスの質を高めようとするとき、自由競争の原理を導入し、互いに競い合わせるという方法がしばしば功を奏してきました。
日本が経済大国として世界に冠たるものとなったのも、この自由競争のなかで、企業同士が生き残りをかけて切磋琢磨した結果ともいえるでしょう。
ただ、この競争原理をどの分野にもあてはめて良いものなのか?
そんな疑問を感じずにはいられません。
競争は大抵の場合少数の「勝ち組」と多数の「負け組」を生み出します。
結果、多数の「負け組」は淘汰されサービスの空洞化が起きて、少数の「勝ち組」は怠慢になりサービスの質の向上そのものが停滞するという危険性もあります。
だからこそ、「教育」や「福祉」、「医療」などの公共性の高い分野には競争原理を持ち込ませないための、「仕組み」がありました。
いま、その「仕組み」を壊そうとするのが日本の世の流れ、いや政府の流れのようです。
教育現場には、「学校評価制度」「学校選択制度」「教育バウチャー制度」の3つの制度をもって、競争原理を活用しようとしています。
それによって、教育の質が上がるとの目論見を政府は立てているようですが、これにも先の疑問・不安が付きまといます。
『義務教育の選択制?難しい競争と機会均等の両立』(産経/12・6)という記事を掲載しました。
ここでは「学校選択性」がもたらす功と罪、二つの側面からその是非を問おうとします。
「功」の部分では、「保護者の学校への関心が高まった」、「自分にあった学校で学べるようになった」「特色ある学校づくりが推進できた」ことを挙げます。
「罪」の部分では、「通学距離が長くなり登下校時の安全確保が難」、「学校と地域の連携が希薄した」、「適正規模が維持できない学校が生じた」ことを挙げます。
このなかで最大の問題は、「適正規模が維持できない学校が生じた」という点です。適正規模が維持できない学校は、統廃合の道しか残されていなく、それは現実のものとしてすでに起きている現象です。
結果、子どもたちが義務教育において保証されるべき「機会均等」が崩れるのではないかとう危惧を示しつつ記事は結ばれます。
このことについてどう捉えるべきか。
これまでの義務教育はその教える内容が、学習指導要領において厳しく規定され、学校によって教育内容に差異がでないように配慮されていました。
しかしながら、先の「総合学習」や「生活科」の導入においては、その指導要領は漠然とした範囲を示すのみで、現場の先生任せようという部分が多々ありました。
そして、それは授業内容の充実においては教員次第であり、しかも教員の実力の差が歴然としてあることを露呈させてしまったように思います。
内容ある質の高い教育を受けれるかについては、既に「機会均等」の原則は崩れていた、あるいはもともと無かったのではないでしょうか。
このことに関しては、教育界は「機会均等の崩れ」を建前にしてただ競争を避けるのではなく、もう一度全ての学校、全ての教員が「質の高い教育」を実現できる意識・力を養うための努力を示すべきです。その努力を示したうえで、競争原理の功罪を明らかにして再度議論をしてはいかがでしょうか。
政府は、「競争ありき」の政策ではなく、まずは「質の高い教育」を実現できる環境作りを整えることが重要です。「制度はあれどサービスは無し」とう状態にならないために。
結局、不利益を蒙るのは子どもたちであり、その報いを受けるのは私たち一人ひとりなのです。
【教育版.07年.4号.50頁に記事掲載】
一時、大きな話題となった「エチゼンクラゲ」。覚えていますか?
エチゼンクラゲは、日本海沿岸で突然大発生し、大きなもので傘の大きさが2メートルにもなり、漁の網を破ってしまうなど漁業に深刻なダメージを与えています。
その大きさ、その大群、そして突然の出現に、『地球の何かが狂っている』と思わず考えずにはいられなかったことを覚えています。
研究者などは、エチゼンクラゲの大発生の原因を詳しく知り、その問題解決に向けての取り組みを続けています。
背景には、地球環境問題があり、「このまま放っておいたら、海はますますクラゲだらけになってしまうだろうと」(読売/1.27)と警鐘を鳴らします。
その一方で、エチゼンクラゲと何とか共生できないかと試行錯誤している人々もいます。
その典型的な例が、「料理して食べてしまおう」というもの。
すでに水産加工食品メーカが開発・販売を始めており、山形県の某水族館では「クラゲレストラン」がオープンしているそうです。
さらに、「クラゲ食」を普及させる研究会も発足したそうです。
それ以外にも、エチゼンクラゲから、病気の診断薬に使われる糖たんぱく質の一種「レクチン」を精製する方法や、美容に良いとされる「コラーゲン」を抽出する技術も開発されたそうです。
このような「ピンチをチャンスに」転換させる、人の知恵には頭が下がりますが、そのピンチを生み出したのも人の営みだったことを考えると何とも複雑な想いです。
私たちに今求められるのは、環境を地球規模で考えられる想像力と、自身ができることを確実に行う意思と実行力です。
50年後の地球。それがとても素敵なものであるように。
【科学と環境版.07年4号.38頁に記事掲載】
子どもは遊びのなかからたくさんのことを学びます。
特に乳・幼児期には顕著です。
幼稚園教育指導要領、保育所保育指針にも「遊びを通じて学ぶ」とあるぐらいですから。
では、「遊び」とは何でしょう?
ここでは、「遊びとは、如何なる強制も受けず、なんら見返りを求めるものでもなく、自発的動機に基づいて行われる活動」とします。
簡単に言えば、「ただ自由で、ただ楽しい」。それだけなのかもしれません。
しかし、子どもは遊びのなかで、他者との関わりやルール理解など様々なことを自然に身につけていきますが、ときに大人が上手に関わり支えることでより学びが大きくなります。
遊びのなかに、子どもたちに「学んで欲しいこと」=「狙い」を上手に取り入れて、遊びの種類や環境を考え、上手に関わることのできる大人はそれだけで、素敵な教育者と言えると思います。
教育の場においての「遊び」とはとても意義があり、とても奥が深いものです。
それなのに…。
『米で鬼ごっこ禁止拡大』(産経/10・30)という記事が。
アメリカの学校では今、伝統的な子どもの遊び「タグ(鬼ごっこ)」を禁止する動きが目立っているそうです。
「背景には、けがをした場合の責任を回避したい教育現場の保身があるようだ」という指摘があります。
日本でも、公園で野球をすることが禁止になる場合が多くなって久しくなります。
これもけがの危険をあらかじめ排除しようという理由が確かあったはずです。
子どもたち自身に「けがをしないためにはどうすれば良いか」を考えさせる機会を奪うばかりでなく、「遊び」そのものを奪ってしまう、大人側の都合。
「遊び」を排除した教育の先にあるものは・・・。
もう一度、遊びの大切さを考え直してみませんか?
【教育版.07年4号.72頁に記事掲載】
文部科学省が2月5日「体罰に関する通知」全国の都道府県に送りました。
*************************************************
【体罰に関する通知のポイント】
1.体罰にあたるから禁止
・殴るけるなどの行為
・長時間にわたる正座や直立
2.体罰にはあたらない行為
・放課後の教室の居残り
・授業中における教室内での起立
・(罰としての)学習課題や清掃活動
・学校当番を多く割り当てる
・立ち歩きの多い場合にしかって席につかせる
・教員や生徒への暴力に対する抑止行為など
3.児童生徒の教室外への連れ出し
・遅刻や授業を怠けた場合については原則禁止
・騒いで他の子供の妨げになる場合は必要
4.その他
・授業中に携帯でメールした場合は一時的に預かる
・出席停止制度の活用はためらわない
*************************************************
この通知が送られる背景には、どこからが「体罰」でどこまでが「指導」なのかの線引きができず、現場が混乱していることがあるようです。
また、一部の行き過ぎた指導=体罰が大きくメディアに報道されたことで、生徒・保護者の権利意識が過剰に高まり、先生は過剰に萎縮してしまったという面もあるようです。
報道によれば、この通知により、「ゼロトレランス(毅然とした指導)の流れが加速する」といった評価がある一方、「指導後の生徒のフォローができるのか」といった懐疑的な意見もあり、いずれにせよ、現場がケース・バイ・ケースで判断するという大原則が重要であることに変わりはないだろうと述べられています。(産経/2・6)
ここまで、「線引き」をしてみせなければ、生徒への教育という働きかけが全うできない現実に、教育の在り方の難しさを感じずにはいられません。
「体罰」と「指導」の線引きは極めて「個人の主観的判断」に委ねられる部分が多くもあり、結局のところは「生徒と教師」の信頼関係の有無に深く根ざす問題になるのでしょう。
ただ、この「生徒と教師」の関係の間に「保護者」が大きく入り込み過ぎている面があることが、最近の大きな特徴として挙げられるかもしれません。
まず、保護者との間に信頼をいかに築くか、保護者の不信感が「生徒と教師」の関係を悪化させる要因とさせないためにどうすればよいか。この点も現場の先生にとっては難しい問題として立ち塞がっているのではないでしょうか。
最後に。
「やつてみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
(山本五十六)
先生。
子どもを誉めてあげれてますか?
【教育版.4号.30頁に記事掲載】
近年、町に熊や猪、猿などの野生生物が現れて、「一騒動」を起こすニュースがしばしば報道されました。
その背景には、山に豊かな自然が減りつつあること。そして、元来、人里と森の境界の役割を果たしていた「山里」が無くなってしまったことがあるようです。
私たちは野生動物とどう共生していくのか。そんな議論が繰り返し起こるようにもなりました。
そんななか、近くて遠い…でも興味深い議論が研究者のなかで起きているという記事(東京/2.9)を掲載しました。
それが、「オオカミ放て論」。
増えすぎた鹿や猿の害で壊滅状態にある山に、天敵のオオカミを移入することで、従来の食物連鎖を取り戻そうという論です。
記事は『推進VS反対論者の言い分は?』の見出しで、推進、反対両派意見を対比して論じます。
記事自体は中立な立場をとっていますが、「デスクメモ」には『無策に眺めている者に「暴論」を笑う権利はない』との一言があり印象的です。
私の住む地域でも山や森がどんどん切り崩され、建売住宅や高層マンションが立ち並びます。
私たち人間は、科学が発達するにつれて次第に自然への畏敬を忘れがちになってしまったのかもしれません。
山や森に住んでいた動物たちにふと思いを馳せます。
彼はどこに行くのだろうかと…。
「ニホンオオカミ」を絶滅に追いやったのも人間でした。
日本の森や山を荒らしているのも人間です。
だから問題を解決できるのもまた人間なのではないでしょうか?
いや、人間にしかできないのです。
日本はその9割以上が右利きです。
最近でこそ「左利きでも良いのでは?」という風潮になってきましたが、一昔前までは「左利き」の場合は幼児期の間に矯正させるのが当たり前だったようです。
ところで「右利き」「左利き」ってどうやって決まるか知っていますか?
人間の場合、実は、生まれたときは「両効き」なんだそうです。
その後成長するにつれて、よく使う側の手が利き手として定着するそうです。
日本の生活社会が右利きが多いことを前提に成り立っているので、結果的に「右利き」が多くなるのは当然の帰結だといえそうです。
では、人間以外はどうなのでしょう?
『イワキセダカヘビ 「右利き」に進化』(京都/2・16)という記事を掲載しました。
石垣島や西表島などに生息するイワキセダカヘビ。
彼ら(?)の歯は右側の本数が多くなっていることが研究により明らかになったようです。
その理由は彼らの主食のカタツムリ。
そのカタツムリは、左巻きより圧倒的に右巻きが多いそうです。
結果、イワキセダカヘビも「右利き」に進化したとのこと。
しかし、カタツムリも馬鹿ではありません。
ヘビの生息する地域では左巻きのカタツムリが多いとの報告もあるそうで、「次はカタツムリが左巻きに進化するかもしれない」と記事は結びます。
「右利き」「左利き」
もう一歩『何故』を追求すると新たな発見が生まれるかも知れません!
【科学と環境版.2007年4号.42頁に記事掲載】
心理学とは、一言で言えば、「目に見える行動」からその「こころの動き」の推測を科学的に研究する学問です。
ただ心理学が捉える範囲は広大で何を知の対象とするかでその解き明かす方法も変わります。
例えば、「学習心理学」の分野ではしばしば「動物」が登場します。
「犬」を観察して、「条件反射」の仕組みを解き明かした「パブロフの犬」などが有名ですね。
最近、特に注目されているのは、「チンパンジー」です。
チンパンジーはその遺伝子の98%が人間と同じといいます。
以前から「洞察学習」などチンパンジーを使った研究はありました。
ただ、彼らの心の動きを解明することで、人間の心を解明しようとする「心の理論」の動きの活発化が拍車をかけている感があります。
以前、「最近は人間を実験台にすると外野がうるさい」と平気でおっしゃられた某大学教授がおられましたが、「チンパンジー」を使うのも結局は五十歩百歩なのかもしれませんね。
そんななか、
「チンパンジーが武器製造」(京都新聞/2・24)の報道がありました。
米研究者が、「西アフリカに生息するチンパンジーが木の枝から槍を作り、狩りの道具としてつかっている」との観察結果を報告したそうです。
もちろん「人間以外で初!」。
関係者からは驚きの声があがっています。
しかし、この観察結果をどう学問としてフィードバックするのか…。
そして、彼らが明確な意思と目的を持って「武器」を作ることができるのなら、やがてその武器の向く矛先には…。
思わず「猿の惑星」を思い出しましたが、考えすぎでしょうか?
【科学と環境版.07年4号.33頁に記事掲載】
教育の「憲法」とも呼ばれる教育基本法が昨年末に改正されました。
教育基本法は理念を謳ったものであり、これがすぐに現場になんらしかの影響を与えるわけではありません。
が、今後行われるであろう「学校教育法」等の関連法規や「学習指導要領」の改定に伴い現場にも影響を与えていくことは間違いありません。
今回示された「改正教育基本法」を私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか?
各全国紙メディアの「社説」を基に考えてみたい思います。
改正に強い警鐘をならしたものは、朝日新聞社と毎日新聞社でした。
朝日は、『「戦後」がまた変わった』と見出しを打ち、防衛庁の「省」への昇格と絡めて、戦後の日本を象徴してきた「平和主義」が崩れていくのではないかと主張します。
その根拠に「愛国心」(法文言には伝統と文化を育んできた我が国と郷土を愛する)が規定されたこと、そして、教育に対する国の関与に対して「法律の定めるところにより行われる」との文言が入ったことにより、国に対してかけられていた歯止めが崩れるのではと指摘します。
毎日もその根拠は朝日と同じ点を挙るに併せて、幼児教育や生涯学習にまで踏み込んだ内容に国からの画一的な押し付けにならないかと指摘し、さらに『これで「幕」にしてはいけない』という見出しを打ったように、「何故、今、基本法改正が必要なのか」に対する議論の不十分さを強く非難しています。そして次の関連法案が改正審議のときにこそ十分な議論を尽くせと訴えかけます。
この2社の社説だけ読むと、今回の改正が私たちの未来に暗い影を落とすのではないかと危惧します。
しかしながら、今回の改正に肯定的な評価を与える新聞社もあります。それが産経新聞社と読売新聞社です。
産経は『「脱戦後」への大きな一歩』だと、朝日とは対照的な見出しを打ち、今回の改正を大きく評価します。特に「我が国と郷土を愛する態度」「伝統と文化の尊重」「公共の精神」「豊かな情操と道徳心」といった新たな理念が盛り込まれたこと、その理念に基づいた教育が行われることが「戦後教育の歪み」を正し、健全な国家意識を育むとエールを送ります。
朝日や毎日が危惧する(名指しはしていませんが…)「愛国心」や「幼児教育」「教育に対する国の関与」に対しても、寛容かつ好意的な姿勢を示します。
読売は改正議論において、毎日とは対照的に「6年にわたる改正論議」と小見出しを打ち、十分な議論があったうえでの改正であったことを強調し、さらに『さらなる国民議論の契機に』と見出しを打つことで、今後さらに「新しい日本の教育」への議論が充実することを期待するとした内容になっていました。
そして朝日や毎日が不安視する事案についても、産経と同じように肯定的な意見を示します。
この2社の社説だけ読むと今回の改正は未来に明るい光が指すのではと思ってしまいます。
しかしながら、4社並べてみると如何でしょう?
両者はまったく正反対の評価を今回の「改正基本法」に与えていることがわかります。
混乱してしまいませんか?
このことにおいても、新聞メディアは報道に際して、その「社の立場」からの「価値付け」を行っているいることがよく解かります。そしてそれが新聞をはじめとしたメディアの健全さとも言えます。
ただ気をつけなければならないことは、新聞報道もまた私たちは鵜呑みにしてはいけないということです。各新聞社から配信される報道は単なる素材に過ぎず、それをどう生かすかが私たちに求められているのです。
そのために必要なこと。
それは自身の価値観を磨くことではないでしょうか?
ただこれとても難しいことです。
まず、どうすれば価値観は磨かれるのかという問題が浮かび上がります。
私はこの価値観を磨くものこそが「教育」だと常々思うのですが、今の教育がそれを担っているかと言えば残念ながら甚だ疑問です。
【教育4号.特集】
「切抜き速報」は、「現場への貢献」を理念に、そして専門職の掲げる理念を編集方針の柱に置いた日本最大の「新聞切抜き情報誌」です。
私たちの送り出す情報が「現場への貢献」となることを絶えず願い、日々誌面作りに励んでいます。
ただ、弊誌を読者の皆様のもとへ送り出すことに加えて、もっと他に私たちにできることがあるのではないか!?
そこで生まれた企画が、今回の「ブログ」を活用した「切抜きの現場から」の試みです。
ブログの最大の特色である双方向コミュニケーション機能を最大限に生かし、読者の枠を超え、より多くの実践現場で活躍する人たちと交流していきたいと思います。 実践者から得られた知識・情報を誌面づくりに積極的に活用し、また私たちも積極的に情報を発信していきます。そのような交流の先にこそ、新たな「切抜き速報の意義」を見出してくことができると確信しています。
では、私たちがこのブログを通じて発信できる情報とは何でしょうか?